みほとけの寺子屋ではお寺や仏像を中心とした勉強会をオンライン形式で開催しています。
この文章は、2024年2月に開催されたオンライン勉強会「山本勉先生による著書『鎌倉時代仏師列伝』と鎌倉時代の仏師の話」のレポートです。
生徒コースにご参加のメンバーきたしんさんが書いてくださいました!
勉強会の厚い内容を丁寧にレポしていただいています。ぜひご一読ください。
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オンライン勉強会 2024年2月12日 ゲスト 山本勉先生
テーマ「鎌倉時代仏師列伝」
今回は鎌倉国宝館長・半蔵門ミュージアム館長で、日本彫刻史が専門の研究者山本勉先生がゲストにお招きし
23年12月に出版された『鎌倉時代仏師列伝』(吉川弘文館)がテーマとなり勉強会が進められました。
『鎌倉時代仏師列伝』は山本勉先生と武笠朗先生の共著の本で、PR誌『本郷』で連載された内容に、有名仏師とデータベースの年表を付け加えたものです。
山本先生の長年の研究が反映されています。
オンライン勉強会の冒頭は、山本先生の大学院生時代の研究活動とその行き詰まりを感じたときに、打開したのが鎌倉時代の仏師の研究だったというお話からスタート。
山本先生が鎌倉時代の仏師について並々ならぬ思いとともに研究者人生を送っていたことを知りました。
続いて本題、鎌倉時代の仏師について。
まずは、前提として、仏師が社会的地位を得る過程についてと「仏師」の地位と成り立ちについての説明がありました。
平安時代に独立した工房を営む最初の仏師が定朝の父・康尚(こうじょう)で、彼は藤原氏の仕事に関わることで社会的な地位が向上し、経済的・組織的にたくさんの人を使えるようになりました。また、寄木造という技法の発達と相まって大きな仏像・たくさんの仏像が作れるようになったそうです。
続いて個別の仏師に話は移ります。
まず康慶。
彼は「仏師のすべてを始めた人」とみほとけさんがキャッチコピーをつけていたのが印象的でした。
平安時代も終わりに近づいてくる時、新しく権力を持った人と積極的に関係を持ち社会的地位を掴んでいった人です。 静岡県の瑞林寺地蔵菩薩坐像の造像を担当したことを紐解くと、源頼朝の挙兵の前から東国で仕事をしていたことや、後白河院御願の蓮華王院五重塔の安置仏を作り都でも存在を認められていたことがわかるそうです。そして、康慶は自身の功績を息子の「運慶」に譲ったという説明がありました。そこで、運慶は東国でも中央でもどちらでも活躍することになったんだとか。
奈良仏師の系譜として康朝の順当な後継者は息子・成朝のはずでしたが、康朝の弟子の康慶に仕事を取られてしまい成朝の作品は残っていません。「Unsung hero(歌われなかった、正しく評価されることのない)」と話されていました。この成朝の悲しき運命について、みほとけさんも、山本先生も気持ちを込めて語られていたのが印象的でした。彼は「ざんねんな仏師」ともいえるかもしれません。
快慶は康慶の弟子でしたが、康慶は運慶・快慶の弟子を抱えながらどういう采配を振るったのかという生々しいお話を聞けました。
また快慶はとっても厚い仏教への信仰心があり、鎌倉時代初頭に活躍した重源など僧侶との関係が深く、浄土教にふさわしい仏像を提供で名を残したそうです。浄土寺・浄土堂は重源好みの宗風だが、必ずしも快慶の作風に沿ったものではないというお話でした。これには驚きました。
一方で運慶のお話。
造る大日如来坐像のルーツ、祀られる場所の意味、などの解説にも話が進みました。実例として修善寺の実慶による大日如来が取り上げられ、特徴として高い髻・胸元の空間のある高い位置での智拳印・上底式内刳についての解説がありました。
そして話は仏師の系譜、平家焼討の後の南都復興の話へ。
奈良で定朝の仕事先を引き継いだのは誰だったのか。
仏師集団は(1)藤原家(天皇母)と結びついた院派・院尊、(2)天皇(後白河院)と結びついた円派・明円、(3)興福寺と結びついた奈良仏師・康助と3つに分裂します。
そしてなぜか円派の明円が奈良仏師成朝の面倒を見ており、成朝が法橋の位についたのは明円のおかげだそうです。
ここでも少し変わった運命に遭遇している成朝が気になる、とみほとけさんは突っ込んでいました。 源平の騒乱で焼け落ちた東大寺の復興は鎌倉幕府が金を出し、奈良仏師の大きな大きな仕事となりました。
院派について南北朝時代の院吉を取り上げました。
足利氏と結びつき「尊氏の大仏師」と呼ばれま他のが院吉。院吉作・大三島の東円坊大通智勝如来を、みほとけさんが山本先生に紹介したエピソードも披露されました。
その後三十三間堂再興造像の話に。
運慶の息子・湛慶が大仏師となりましたが、「平安時代像の復興像」であるという同じ課題に向け三派が同時に仕事をしていたため、1000体の千手観音を見比べると、三派の違いがわかるんだとか。(この話が面白かったです)
三派の見分け方として(1)元の像にあわせる院派(ウエスト引き締まっている)、(2)新しいものを入れている慶派(ウエストが太い)、(3)その中間の円派と特徴を解説されていました。三十三間堂は平安時代の王朝的仏像制作の最後で、その後の仏師は京都から地方に散らばってゆきます。
その後の仏師の系譜については、山本先生の著書「完本 仏像のひみつ」にも分かりやすく載っていますのでご興味の方は参考にしてみてください。
その後、地方仏師の話に移ります。
山本先生が調査をした定快が彫った塩舟観音寺の仏像の解説は熱量がこもっていて面白い話が聞けました。特に覚えているのは、定快がそれらを作るのには20年以上かかったことがわかった、という話でした。
配信の最後は、山本先生の研究人生を振り返るお話になってゆきました。
山本先生は定快とご自身の研究者人生を重ね合わせるようになたんだとか。
若いころは一つの仕事を20年続けることは不幸だと思っていたが、年を取ってからはむしろ幸せだと思うようになったそうです。
また仏像を見て自由に想像し、仏師の人生を絡めて考えると、より仏像の存在の仕方が深くなる。美術の研究者は文字資料に加え作品の雰囲気を含めて考え、人物像を膨らませるといった仏像の見方を示されました。
最後にみほとけさんへのエールとして「みほとけさんには何十年も仏像に関わって、50年後ぐらいに振り返って欲しい。年を取ってふり帰って若いころの記憶を思い出し、若いころ見たものを改めて見ると見え方が広まり深まる」と語っておられました。
今回の勉強会では仏師の系譜や仏像の解説に加え山本先生の研究者としての歩みであったり、権力者と仏師の関係性(権力者は自分に近い仏師を作る)を知ることが出来ました。
それから仏像の見方としてドラマにしてみたらどうなるか妄想する方法や、年を取ってから改めて見直してみるやり方など色々な話が聞けて面白かったです。やはり一流の研究者には文献の読み込み・実地調査に加え、想像する力が必要なのかと感じました。
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以上、レポートでした。
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