2020/01/31 13:16
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この記事は、つぎの記事を基に検証します

明智光秀の首塚(京都・明智明神) 明智光秀の最後とは

>なぜ、明智光秀の首塚、いわば明智光秀の墓が
>ここ京都にあるのか?
>諸説ありますが、ご紹介してみます。

>羽柴秀吉は「織田信長と織田信忠は生きていて
>「膳所城に逃れた」と言うような「噂」を流したため
>明智勢の雑兵らは、咎められることを恐れるなどして
>士気も上がらなかったと言います
>明智光秀が、織田信長の首・死体を、確実に確保できて
>いなかったと言う致命的な戦略ミスでしたが
>そこを付け込まれた形です
>そのため、激戦を演じるも明智勢は不利な情勢になり
>伊勢貞興らが討死して敗戦し、勝竜寺城に退却します
>その勝竜寺城は、1万人以上の兵力を城内に入れること
>が出来ない狭い城だったため、明智勢の兵士の大半は
>脱走・逃走し、16000いた兵力は700まで激減したと
>されています

 >再起を図るため、明智光秀は勝竜寺城を密かに
>抜け出して、妻子らもいる本拠地・坂本城を
>目指しました
>しかし、その途中の夜中、小栗栖の藪(明智藪)にて
>土民の落ち武者狩りに遭い、竹槍に刺されて絶命
>したとも、自刃したとも、されています

*上記は参照原文をそのまま引用


上記は世間で通っている通説です
当時の坂本城には妻(妻木 煕子)はすでに他界して
ました


>明智光秀の首塚とされる供養碑・墓「東梅宮並明智光秀墳」
>が存在する

>介錯した家来の溝尾茂朝が明智光秀の首を持って
>知恩院の近くまで来たところで、夜が明けた来て
>首が敵に奪われるのを避けるため、地面に埋めたと
>伝わります
>ただし、明智光秀の首は、織田信孝によって
>本能寺の焼け跡に梟首が晒させてたともされています
>諸説ありますので、他にも色々とあるのですが
>「京の七口」といわれる街道の出入り口のひとつ
>粟田口(あわたくち)にて、明智光秀と斉藤利三の
>死骸が磔にされたとも言われています
>吉田兼見の兼見卿記でも、京都東山三条白川筋
>(東山区梅宮町)にて曝されていたとあり、その後
>首塚が築かれて埋葬したとも記されています

*上記は参照原文をそのまま引用


この辺からが極端に怪しくなりますね
出所は、明智軍記などの江戸元禄時代に書かれたり
伝わった娯楽読物ですから、小説やドラマに参照
されるのは道理ですが、歴史ではありません!

吉田兼見の兼見卿記は晒されたとあるだけで
それが明智光秀の首であったとは一言も書かれて
ないので、晒されたのみで光秀であり死である
と断定するのは、いかにも幼稚すぎますね


>川角太閤記によると、羽柴秀吉が三十三間堂で
>休息していたところ、明智勢の首が約700届いたと
>言う事で、確認してみたら、その中に明智光秀の
>首があり「首と胴体をつないで、金具でとめて
>粟田口の河原に磔にせよ」と命じたともあります

 *上記は参照原文をそのまま引用


まさに、この下りが圧巻ですね!
元禄時代の大衆文化が浮かれ切った背景の
人々を沸かすためだけに書かれた大衆娯楽書
そのものですね

秀吉に届けられた首は源義経と同じで
時間が経ちすぎ(3日とも4日とも伝わる)
さらに夏場で腐敗が著しく判別できる代物で
はなかったといいます

光秀と利三の首は別々にさらされたようで
光秀の首は高い処で晒されたため通行人は
顔を見れなかったとも伝わります

また利三の首は親友だった絵師が刀で
警護者に切り込み翌日か翌々日に奪われてます

ただし、秀吉軍は光秀家臣をことごとく
徹底して追い詰め徹底した皆殺しにしてます
ので大将としては反撃の芽を摘み切るという
徹底さは天晴だと思います

後日、秀吉軍により光秀を討った土豪探しが
行われてますが形跡すら見つかってません
また、この時期は秀吉天下の時代ですから
俺が討ち取ったり~と申し出れば途方もない
ご褒美にありつける状況にも関わらず
名乗りもあがらないというのは、このような
事実は存在しなかったという証になると
強く考えれます



>明智光秀の首塚とされるものは、丹波・神尾山城
>から近い亀岡の谷性寺にもあります
>大久保山城にいた細川ガラシャに首が送られた
>ともされ、宮津の盛林寺にも明智光秀の
>宝篋印塔首塚がありますので、明智光秀の首塚は
3箇所あると言う事になります
>その他にも、美濃・桔梗塚(伝明智光秀公墓)や
>明智光秀の胴塚とされる明智光秀之塚が
>明智藪からほど近いところにあります
>明智光秀の供養塔としては、坂本城からほど
>近い西教寺にもあります

>明智光秀の最後の地も、醍醐寺の近くである
>ですとか、京都の山科だったなど、諸説あります
どれが本物で、どれが偽物などは、議論しても
結論が出ません 

 *上記は参照原文をそのまま引用


ガラシアは細川忠興の軽妙な配慮で
即座に誰もわからない山奥に幽閉されて
いますので、この説はありえないでしょう

亀岡の谷性寺はよく知ってます
桔梗の美しい小寺で地域住民は
光秀を今でも尊敬してますが~首は?と
聞けば・・・頭を傾げられてますね

つまり、結論として~
参照文献の筆者も同意だと思いますが
光秀に関して、ほとんどが不明だらけで
出生、生い立ち、死去・・・について
謎の中・・・ということになります

そして首塚が3か所あっても
山崎の合戦の後の死は限りなく怪しい



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