
※この記事は、EAST ENDERS COFFEEのお客さんへの報告用も兼ねて無料公開します。メンバー以外の方もお楽しみください。
写真:クラフトチョコレート作りを学ぶ「カカオハック」の風景。素材や製造過程を知り、それを楽しむ時代なのだと思います。(EAST ENDERS COFFEE提供)
2人でやるとしたら、好きな空間を作りたい
お店を始めてみたいけれど、いきなり独立開業するのは不安が大きすぎる。でも、やってみたい――。こんな思いを抱いている会社勤めの人は世の中に少なくないと思う。
1つの答えを見せてくれるカップルが愛知県豊田市にいる。トヨタ自動車という日本でも有数の大組織で働きながらコーヒースタンド「EAST ENDERS COFFEE」を開業した山谷さん夫婦だ。
妻の麻美子さんは香川県出身。大学時代は大阪で過ごし、新卒入社をしたトヨタで正社員エンジニアとして10年以上勤務した。在職中に開業し、現在はフリーランサーとして働いている。
地元出身の夫の明広さんも、やはりトヨタの電気系のエンジニアだ。所属は部品メーカーだが、入社以来ずっとトヨタ内で勤務。同僚として知り合った6歳下の麻美子さんと職場結婚して今に至る。
「年3回の長期休暇も同じなので、結婚する前から2人でいろんなところを旅行していました。本屋や自動車博物館を巡るのが目的で、その土地に根付いたようなコーヒー屋に入るのも好きです。僕らはチェーン店などには入りません」
開店前のEAST ENDERS COFFEE内で静かに語る明広さん。穏やかだけど自分なりのスタイルと好みははっきりしている理系男子だ。4年前、彼のアンテナに引っかかったのが豊田市の商工会議所主催の起業セミナーだった。近いし無料だし行ってみよう、と軽い気持ちで夫婦揃って参加した。
「最初からコーヒー屋をやろうと思っていたわけではありません。僕たち2人でやるとしたら何かな、と考えたときに『自分たちの好きな空間を作りたい』と思いつきました」
海外での旅先で立ち寄った中でも印象的だった小さなコーヒースタンドがある。気軽に立ち寄れて、美味しいコーヒーが飲めて、店主が好きな本やアートが飾ってあるような場所だった。
豊田市駅から歩いてすぐの好立地にあるEAST ENDERS COFFEE。銀色の箱は本の交換を楽しめる「交換本棚」。
一歩踏み出した先で舞い込んだ破格の好条件
「事業計画を立ててプレゼンもするセミナーでしたが、すぐに開業するつもりはまったくありませんでした」
率直に明かす明広さんだが、会社という枠組みの外に一歩踏み出すと思いがけない縁やチャンスが到来することがある。商工会議所から豊田市でまちづくりをしているTCCMという社団法人を紹介され、駅前の一等地でコーヒースタンドをやってみないか、という誘いを受けたのだ。スタンド自体はTCCMが用意してくれて、売り上げの一部だけを場所代として支払うという好条件。しかも、土日だけの営業で構わない。
「僕たちは飲食店経営の経験がないので、いきなり場所を借りるのは難しいと思っていました。あのお誘いがなかったら、今でも店をやっていなかったかもしれません」
豊田市駅前の複合施設内で週末だけのコーヒースタンド「B&C space」を開いたのが2018年8月。起業セミナーで事業計画を作成してからわずか半年後だった。まさにとんとん拍子である。
撮影は妻に任せて、清潔感溢れる店内でインタビューさせてもらいました。ちょっと緊張する……。
社長でなければ本当にやりたいことはできない
トヨタのお膝元である豊田市内で開業すると、会社には即座に副業がバレてしまう。その点は大丈夫だったのだろうか。
「ちゃんと申請をして通りました。トヨタの社名を利用するような副業でなければ問題ないようです」
麻美子さんが簡潔に答えてくれる。淡々としているけれど情熱と実行力を内に秘めたような女性だ。車がとにかく好きでトヨタに入り、次世代の自動車を企画し、技術検証などをする重要な部署で働いていた。
「仕事自体は好きでした。でも、やりたいことがあっても、あまりに多くの人の決裁を取る必要があります。社長にでもならない限り、本当にやりたいことは会社ではできないと感じていました」
会社員として働くには麻美子さんは「やりたいこと」が多すぎる人なのかもしれない。スペースを間借りしているB&C spaceにも物足りなさを感じ、自分たちが好きなアートを展示したり音楽を流せたりできるような空間を作ってみたくなった。
2020年5月、元のコーヒースタンドから100メートルほど離れた場所でEAST ENDERS COFFEEを開業。すでに2年弱の店舗経営の実績があるので、今度は自信を持って進められたのだろう。店舗づくりの詳細は麻美子さんが書いたこちらの記事をご覧いただきたい。どんなところにこだわり、何にいくらかかったのかをわかりやすく赤裸々に開示してある。有料記事だが、これから店舗経営したい人にとっては大いに参考になると思う。
ガラス張りなので店内の様子がよく見えます。お洒落で無機質なのに入りやすい店舗デザインです。
自分たちが楽しくなかったら独立開業した意味がない
会社を退職した麻美子さんだが、EAST ENDERS COFFEEの営業日を増やすつもりは今のところない。近いうちに自分も会社を辞める予定だと公言する明広さんがその理由を説明する。
「この店を週5日とか営業すると時間的に縛られてしまい、何のために始めたのかがわからなくなります。自分たちが楽しくなかったら意味がありません」
平日は好きな旅行をしたり写真を撮ったりする活動に充てたい。店のプロモーションを兼ねて、後述するクラフトチョコレート作りのワークショップも各地で開きたい。自分たちが前向きに働ける時間的余裕を確保し、やりたいことだけを本気でやる。そして、遊びの中からも価値あるものを見つけ、客と分かち合おうとしているのだ。この夫婦からは爽やかな商売意欲を感じた。
こちらが口を開くとしっかり耳を傾けてくれる2人。一時的にマスクを取ってもらいました。好奇心と冒険心が旺盛な理系カップルです。
自分たちでデザインした店舗は「名刺代わり」になる
実は、僕がEAST ENDERS COFFEEを見つけたのはコーヒーがきっかけではない。妻の友人がこの店の「クラフトチョコレート」をくれて、その味わいに衝撃を受けた。材料であるカカオの味がはっきりわかる――。チョコレートの概念が変わるような体験だった。
厳選したカカオ豆からチョコレートのバーにするまでを一貫して製造することを「ビーントゥバー」という。都会ではその専門店をときどき見かけるようになったが、シングルオリジンコーヒーの店に比べたらまだ多くない。コーヒー豆のように農園指定をして買えるカカオ豆も限られているようだ。
「将来的にはタイやコロンビアの農園と直でつながるかもしれません。適正価格で仕入れたいです」
コーヒーだけでなくクラフトチョコレートの製造と販売に挑戦できたのは、麻美子さんが会社を辞めてもお店の営業日を増やさなかったからだ。そして、EAST ENDERS COFFEEの空間と味が「名刺代わり」になり、意外な仕事が舞い込むようになった。
「グラフィックデザインの仕事は以前から受けたりしていました。いま、この町を紹介する冊子の編集やライターの仕事も受けています。こういうお店ができるんだったら、とお願いされることが増えそうです。その冊子の撮影は夫が担当します」
名古屋などの都会に比べると、豊田市にはEAST ENDERS COFFEEのような店は少ない。それだけに町の人たちに知ってもらいやすく、様々なチャンスが到来するのだろう。
店内には明広さんが好きな写真家の作品が展示されていました。自分が好きなアートをお客さんに見せられるって贅沢ですね!
地域のアート活動の新しいルートになりたい
「この店を作ってから知り合いになった人もたくさんいます。昔からの友だちや親戚もフラッと来てくれるようになりました。家とは違って、事前に約束する必要はないので、会う頻度はむしろ増えたと思います」
いろんなことをやってみたい、本当にやりたいことは何なのかは模索中、とさらりと話す麻美子さん。一方の明広さんにはEAST ENDERS COFFEEの将来像がある。豊田市の文化の一部になることだ。
「豊田市美術館は面白い展示もやっていますが、アート好きな人が来ても他に行くところがありません。うちでもアート活動をして、新しいルートを作りたいです」
好きな作家の絵や写真を展示する他、理系の知識を生かして「電子基盤づくりワークショップ」なども開催。車好きの自分が撮る写真は「車好きでなくても『いいね』と思える車文化」の形成に貢献したいという。ヨーロッパで長く愛されている車種が念頭にあるようだ。
個性が異なる夫婦が一致しているのは「2人でやることに意味がある」ということ。2人とも会社を辞めたら収入は激減するが、「何とかなる。死ぬことはない」と気楽に考えているようだ。安定を優先する人生よりも、多少不安定でもやりたいことをやる。気取りも悲壮感もないEAST ENDERS COFFEE。清々しさだけが漂う空間である。
白、黒、グレーで統一されたレジ回り。木目調を排したところが2人のこだわりのようです。
ベリーズ、ガーナ、インドネシア。カカオ豆の産地が異なるとチョコレートの風味も違うのですね。「3種食べ比べセット」1350円がお勧めです。
足の組み方まで似ている可愛い山谷さん夫婦。だんだん馴染んでくると、僕もざっくばらんに話せるようになりました。週末に豊田市に行くときはぜひ立ち寄りたいお店です。