「いのちからはじまる話をしよう」Templeは「いのち」を真ん中においた対話の場です。ご要望にお応えしてオンラインでの開催を始めます。世界の大きな変化の中でストレスを感じる人が増えています。社会での役割や肩書きなどをいったん棚上げし、「なにものでもないいのち」としての自分にくつろいでみませんか。

プロジェクト本文

「いのちからはじまる話をしよう」

Templeは「いのち」を真ん中においた対話の場です。皆さんのご要望にお応えしてオンラインでの開催を始めます。

オンライン化にあたり、参加者同士の対話が深まるつながりを作るため、CAMPFIREコミュニティを利用してコミュニティ化することにしました。

社会での役割や肩書きなどをいったん棚上げし、「なにものでもないいのち」としての自分にくつろいだとき、そこにはどのような感覚が湧き上がってくるでしょうか。


Temple共同主宰・小出遥子からのメッセージ


いのちからはじまる対話の場・Temple


「いま」だからこそ、Templeという場が、必要なのだと感じました。


「いのちからはじまる対話の場・Temple」は、2014年の冬のはじめに、ひっそりと産声を上げました。

お寺の本堂に集った、見ず知らずの人たちが、少人数のグループになって、ざっくばらんに「いのちからはじまる対話」をたのしむ……。

Templeというのは、言ってしまえば、ただ、それだけの場です。


でも、「ただ、それだけ」だからこそ、そこに立ち現れてくる景色は、ほかでは味わうことのできない、決して替えのきかない、特別なものばかりだったのです。


お寺というのは、そのまま「仏さまのお家」です。

仏さまの前では、誰もがみな、「なにものでもない、ひとつのいのち」。

普段、お寺の外でまとっている、社会的な役割だとか、肩書きだとかを、一度、すべて、仏さまにお預けして、「いのち」の平等性に立ち返ってみる。

「なにものでもないいのち」としての自分を思い出してみる。

「仏の家」という、安心・安全な空間に、「身も心も放ち忘れて」(道元禅師)ただ、ゆったりとくつろいでみる。

そして、即興で作ったグループの真ん中に、「いのち」というものをフワッと置いて、ただただ、じっと待ってみる。


その時に、どのような「ことば」が湧き上がってくるのか、あるいは湧き上がってこないのか……。

そこで起きてくることのすべてを、「正解」も「不正解」もなく、ただ認め、ただ許し、ただ受け入れていく。

そこに見えてくる景色を、「否定」も「肯定」もせず、ただ、ありのままに受け止めていく。


そうして生れたTempleという場には、いつだって、純粋な、「いのち」の発露がありました。

そこにはいつだって、ことばにならない感動がありました。


ほんとうの意味での「対話」が成り立つ場としてのTempleに、主宰の私はもちろん、ご参加くださった方々、ご協力くださった方々も、大きな可能性を感じてくださっているようでした。


■定められた場でしかTempleは開けないのか?


Templeは、その後、全国のご縁のあるお寺で開催されるようになり、順調に広がりを見せていきました……が、2018年の秋に、一度、その場を閉じることとなりました。


表向きの理由としては、「お坊さんに、この場をお返ししたいから」「全国のお寺で、自主的にTempleを開いて欲しいから」「小出遥子という個人が主宰を務めている限り、広まるものも広まらないから」というものでしたが、それだけではなかったことを、ここに告白します。


「お寺」という、定められた場所でしか、「いのちの対話」が生まれないのだとしたら、それはほんものではない—


実は、そんな気持ちが、Templeを開催している間、ずっとずっと、私のこころの中でくすぶり続けていたのです。

でも、その「くすぶり」を解消する手段が、当時の私には、どうしても見つけられなかった。


お寺という場が嫌いになったわけでは決してありません。

むしろ、お寺という場に特別な魅力を感じているからこそ、その場に甘えていてはいけない、という気持ちが強まってしまったのです。


場を閉じている間も、「元Temple主宰」である私の元には、復活の要望が、ぽつり、ぽつりと届いていました。


「Templeのような場は、ほかにはなかった」

「ほんとうの意味での“対話”の感動を、もう一度味わいたい」


そのような声をうれしく感じる気持ちがあると同時に、どうしても復活に向けて踏み出せない自分もいました。

上記の疑問が、まったく解決できていなかったから。


「Templeを復活させるとしても、元のかたちではやりたくない」

「でも、じゃあ、どういうかたちなら復活可能なんだろう?」


自問自答を繰り返しつつ、私は私で、自分自身の「いのちの探究」を続ける日々を送っていました。


■この世界全体が「仏の“おなか”」そのものだった!


そんなある時、なにか特別なことをしていたわけでもなく、ただ、普通に「生活」を送っていた私の元に、ふいに、大きな大きな「気づき」がやってきたのです。


「この世界は、そのまま、仏さまの“おなか”の中なんだ……!」

「私たち、最初の最初の最初から、完全に、“救われ切って”いるんだ……!」


このような体感は、実は、元からありました。

自分の中に、「仏」(あるいは「神」、あるいは「宇宙」、あるいは「愛」、あるいは「いのち」、あるいは……)の存在を感じると同時に、「仏」の中に生かされている自分を感じる。

「仏」と「私」とか、無限の入れ子構造になって、「ただ、いまここに、ある」というような……。


ただ、その時ほどはっきりと「この世界は、そのまま、仏の“おなか”の中にある!」と、ことばで認識したことはなかったのです。


「仏の手のひらの上」ではなく、「仏のおなかの中(仏の胎内)」。


ギョッとしてしまうような表現ですが、「救いの取りこぼしのなさ」という点では、「おなかの中」ということばの方がしっくりきますよね。


この「気づき」がやってきた時、おなかの底から、「あったかくて、やわらかくて、ひろがっていく」ような、無限の安心感が湧き出してきて、私という人間をすっぽりと覆っていくような感覚が生じました。

同時に、無限の安心感の中に、「私」がフワッと溶け出していくような感覚も生じました。


とてもリアルな感覚でした。

いまでも、その感覚は残っています。


ちょうどその頃、Templeの誕生から「一時休止」に至るまで、アドバイザー的な立ち位置で、すべてを見守ってくださっていた僧侶の松本紹圭さんが、ご自身のnoteで、


「スーフィズム(イスラム神秘主義)の思想に触れる中で “自分は世界の中にいる一人ではなく、世界がまるごと自分一人の中にある”というビジョンを取り戻すことができた」


といったようなことをお書きになられていて、不思議なシンクロニシティを感じました。


■そしてTemple復活へ


さらに時は進んで、2020年。

新型コロナウイルスの世界的流行が発生し、私たちの日常の景色は一変してしまいました。

誰もがみな、「死」を意識せざるを得ない状況が生まれたのです。

世界は、先の見えない「不安」に包まれました。


日々報じられる感染者数・死亡者数の増加、自粛要請ムードの強まりに比例して、私の元には、常にも増して「Temple復活」を切望する声が、方々から届けられるようになりました。

私自身、「いまこそ、あの場が求められている」という直感が、日に日に強くなっていくのを感じていました。


そんなある日、私の元に、松本さんからメッセージが届きました。


「オンラインで、Temple、やってみない? 僕らには、いまこそ、“いのちからはじまる対話”が、必要なんだと思う」


メッセージを読んだ瞬間、ピンとくるものがありました。

と同時に、私の中にあった「疑問」が、一瞬で解けていったのです。

「ああ、そうか、その手があったか……!」と。


この世界は、まるごと、「仏のおなかの中」にある。

つまり、この世界は、まるごと、「仏の家」であり、そのまま「お寺」であるのだ、と。


「いま、自分が生きている場所を、そのまま、“お寺”にしてしまおう」


と言うより、


「いま、自分が生きているところは、そのまま、“お寺”なのだと気づいていこう」


新生Templeのコンセプトが決まった瞬間でした。


考えるより先に手が動いて、松本さんに返事を送っていました。


「ぜひ、やりましょう。Temple、復活させましょう!」


それぞれが、それぞれの場で参加する(参加せざるを得ない)、オンライン上での「対話」だからこそ、むしろ、本質的な「気づき」は生れやすい。

新生Templeの可能性の大きさに、胸が高鳴りました。


■Templeは「安養道」のクロス地点


そうして立ち上がったのが、このオンラインサロン「Temple」です。

復活させるにあたって、松本さんにも、小出との「共同主宰」というかたちで、これまで以上に積極的に場づくりに関わっていただくことになりました。


「いま、自分が生きているところは、そのまま、“お寺”なのだと気づいていく」

「“お寺”の中に生きている、生かされているという安心感をベースに生きていく」


このコンセプトを共有していく中で、松本さんの口から、「ウェルビーイング」と「安養」というキーワードが出てきました。


”お金だけで人や社会の幸せは測ることはできない。もっと、身体の健康、心の安寧、社会的なつながり、信仰的な深さ、それら全体が豊かに満たされて初めて、幸せが出てくるんじゃないか。多くの人が、そう考えるようになってきました。最近ではそのことを「ウェルビーイング」と呼ぶようです”

”では、そんなウェルビーイングの概念を仏教がどのように受容できるか。私は、「安養」という言葉に着目しました。「安心」と「養生」の頭文字でもあり、「安養(あんよう、または、あんにょう)」は日常生活であまり見かける言葉ではないけれど、仏教世界では割とポピュラーな言葉です。「安養国」「安養浄土」など極楽の別名であり、阿弥陀仏は安養仏とも言われます。「安養界」は、心が安らかとなり、身が養われる世界ということなので、言ってみれば、ウェルビーイングが完全に実現された世界と言っても良いでしょうか”


それぞれの「生活」の中で、それぞれの「安養道」を歩んでいる仲間たちが、オンライン上の「お寺」に集って、それぞれの「気づき」をシェアし合う。

それによって「気づき」を広めたり、深めたりしながら、少しずつ、自分自身の「安心」を養っていく……。


Templeは、それぞれの「安養道」のクロスする場所であり、中心点でもあります。


■生き方のシフトの助けとして


いま、人類全体が、これまでの「生き方」を変えざるを得なくなっています。


あたま優先の生き方から、からだ全体を使った生き方へ。

思考優位の生き方から、感性優位の生き方へ。

不安ベースの生き方から、安心ベースの生き方へ。


ひとりひとりが、変えていくしかないんです。


そのためのヒントが、Templeには集まっています。

そのための仲間も、Templeには集っています。


ともに歩んでいきましょう。




支援者へのリターンについて

毎月の支援者の方には、以下のリターンがあります。

・月2回のTempleへの参加ご招待(不定期で特別ゲストあり)

【Temple】月に2回、20:00〜22:00、新月と満月の日を基本として「Temple」をオンラインで開きます。前半は主宰者(小出・松本)によるダイアローグ、後半は参加者全員が小グループに分かれて対話します。前半のダイアローグには、不定期で素敵なゲストをお招きすることもありますので、お楽しみに! なお、アプリケーションはZoomを利用します。


主宰者紹介

小出遥子(こいでようこ)

1984年生まれ。新潟県出身。詩作・執筆活動、講演活動、瞑想・対話指導などを通して、あらゆる違い以前の「本来的ないのち」のあり方を探究。著書に『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』(KADOKAWA)など。毎週日曜日夜8時から「ラジオ瞑想」生放送。YouTube「小出遥子のTANDENチャンネル」毎日更新中。最新の活動状況は「小出遥子オフィシャルサイト」へ。

松本紹圭(まつもとしょうけい)

1979年北海道生まれ。東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。世界経済フォーラム"Young Global Leaders"メンバー。『こころを磨くSOJIの習慣』(ディスカバートゥエンティワン)他、著書多数。お寺の朝掃除の会「Temple Morning」の情報はツイッター(@shoukeim)にて。note定期マガジン「松本紹圭の方丈庵」でコラムが読めます。

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