2020/05/13 12:00

Templeメンバーのみなさん、こんにちは。

Temple共同主宰の小出遥子です。

これから、週に一度ぐらいのペースで、「対話」についてのエッセイを更新していきます。


おいしいお茶など飲みながら、

ゆったりとした気分でお読みいただければさいわいです。

どうぞよろしくお願いします。


さて、「対話」って、いったいどういうものなのでしょう?

どういった営みを「対話」と呼ぶのでしょう?


そう問いかけられて、即座に「こういうものです!」と答えられる人は、

もしかしたら、ほとんどいないのではないでしょうか。


誰もがなんとなくその意味を知っているようでいて、

その定義が明確に定まっていない(そもそも定義が難しい)事象のうちのひとつに、

「対話」は確実に数えられるように思います。


よく理解されていない、だからこそ誤解も多い「対話」という営みについて、

このエッセイでは、いろんな角度から、少しずつ、光を当てていく予定です。



■「議論」は不安感前提の営み、「対話」は安心感前提の営み


最初に、私がお伝えしたいのは、

(一般に言われる)「議論」という営みと、「対話」という営みは、

似ているようでいて、実は、完全なる別物だということです。


もちろん、「議論」と呼ばれる営みの中にも「対話ベース」のものはあって、

それは非常に意義深い、素晴らしいものであると感じています。

(「対話ベース」の「議論」に関しては、次回以降、詳しくフォローしていきますね。)


ただ、世の中で行われている「議論」のほとんどが、ざんねんながら、

それとは違った態度(「対話」とはかけ離れた態度)で行われている、

というのが私自身の実感です。


「議論をしようとしてなされる議論」(=「対話ベースの議論」)と、

「(誰も望まないのに、結果的に)議論になってしまった議論」とでは、

まったくその性質が異なってきます。

私が問題にしているのは、もちろん、後者のタイプの「議論」です。


結論から言います。


このタイプ、つまり、世に言われるほとんどの「議論」は、不安感前提で行われています。

対して、ほんとうの意味での「対話」は、安心感前提で行われます。


ここが、二つの間の、いちばん大きな違いです。



■おなかにこころがおさまると、安心感が増して安定する


いま、さらっと、「不安感」と「安心感」ということばを出しました。

ここに関しても、詳しい説明が必要だな、と感じています。


……が、長くなりそうなので、ここでは、ざっくりと、


「本来的な”いのち”のあり方からズレた時に、あたまの中で生じるのが不安感」

「本来的な“いのち”のあり方に沿っている時に、おなかの底から湧いてくるのが安心感」


とだけ書いておきましょう。


……まったくわけがわからない、という声が聞こえてきそうですね(笑)。


では、もっと具体的に、「からだ」の面から説明してみましょうか。

こちらの図をご覧ください。



(↑この図、今後、何度も登場すると思います。)


詳しい解説は次回以降のエッセイに回しますが、

つまるところ、私たち人間は、


あたまの方にこころが浮かび上がっていると、不安感が増して不安定になり、

おなかの底の方にこころが落ち着くと、安心感が増して安定する。


そんな仕組みの中に生きている/生かされているということです。



■安心感のあるところに「対話」はおのずから生まれてくる


ここまでのお話をまとめると、


あたまの方にこころが浮かび上がってしまった状態=不安感前提で行われるのが「議論」

おなかの底の方にこころが落ち着いている状態=安心感前提で行われるのが「対話」


ということになります。


安心感の中にあるとき、私たちは、自然に視野が広がり、呼吸が深くなり、

大きな「つながり」の中に生きている/生かされている自分を感じます。


その実感・体感を持った人たちが、二人以上集った時、

その場におのずから生まれてくるのが「対話」です。


そこには、「正解」も「不正解」もありません。

「答え」はひとつではないし、そもそも「答え」を出そう、という思いすら生じてきません。

「結論」は、出る時には出るかもしれない、でも、出ないなら出ないでまったく問題はない。

出たとしても、それは、現時点での「結論めいたもの」でしかなく、決して絶対的な「答え」ではない。

そんな理解が共有されています。


いまここにあらわれては消えていくすべてを、フラットなこころで、

ただただ受け取るように眺め、受け取るように聴き、受け取るように感じていく……。


それが、「対話」という営みの本質であり、

それとは真逆の態度で行われるのが、(一般に言われる)「議論」です。



■「平和」は「対話」からはじまる


先ほど、世の中で行われている「議論」のほとんどが、ざんねんながら、

それとは違った態度(「対話」とはかけ離れた態度)で行われている、と書きました。


これ、もっと言えば、「対話」とされる営みのほとんどが、

結果として「議論」になってしまっている、ということでもあります。


世の中のほとんどの人は、もしかしたら、

ほんとうの意味での「対話」をしたことがないのかもしれない。

それどころか、そんなことが可能なのだと思ってみたことすらないのかもしれない。

最初から諦め切ってしまっているのかもしれない。


だからこそ、本人はまったく望んでいないのに、「議論」をせざるを得なくなって、

その中で疲弊して(不安感ベースの営みは、かならず自他を傷つけます)、

こころを閉ざしてしまう人が多いのかも……。

人類同士の無用な争いの根本的な原因は、まさしく、ここにあるのかも……。


私は、そんなふうに感じています。


「対話」は、本来、誰にでもできるものです。

どんな人にも、「対話」のスキルは、かならず、平等に与えられています。

ただ、やり方を知らないか、すっかり忘れてしまっただけ。


ひとりひとりが、ほんとうの意味での「対話」を体験することができたら、

そして、ひとりひとりが、それを日常的に、当たり前に行うことができたら、

世界は、かならず、うつくしい調和を取り戻すはずです。


「平和」は「対話」からはじまる。


大げさではなく、そんなことを思っています。


Templeという、この穏やかな「対話の場」が果たす役割は、

もしかしたら、私たちが考えている以上に、大きいのかもしれません。


次回以降、さらに深く、「対話」の本質や、その可能性について語っていきますね。

どうぞおたのしみに◎

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