2019/08/01 11:29

小売り用のジンジャーシロップは3種類。いずれも1500円。「ジンジャーエール」「ジンジャーミルクティー」「シャンディ・ガフ」のおすすめレシピ付き

友だちに誘われてイベントに出店。消去法で選んだのは「保存のきく飲料」

 友だちから素敵なデザインのジンジャーシロップをもらったのは1年ほど前のこと。炭酸水で割ってジンジャーエールを作ると、半端のない生姜感がした。甘さよりも生姜の健康的な刺激を強く感じるのだ。これは旨い。空き瓶は一輪挿しにも使える。グルメな大人への贈り物にちょうど良い。

 このシロップを製造販売しているのは大阪出身の中川清史(きよふみ)さん(37歳)。バイオテクノロジー関係の専門学校を卒業し、愛知県蒲郡市にある再生医療メーカーに就職したのは2002年。16年以上勤務した後、副業で始めていたジンジャーシロップ製造のほうに仕事を絞ることに決めた。2019年現在では、愛知県豊橋市で奥さんと小学校3年生の息子くんと暮らしつつ、自転車で15分のところにある製造所兼店舗に通っている。

 この時点で様々な興味がわく。なぜ生姜なのか。中川さんは生姜マニアなのだろうか? 妻子がいる身なのに正社員という安定した立場を捨てたのはなぜか。そもそも副業は許されたのだろうか。副業のまま細々と続ける道はなかったのか。今後、生計を立てる見通しはあるのだろうか。可能な範囲であれこれ聞いてみたい。

「ジンジャーシロップを選んだきっかけは、スノーボードつながりの友だちが主催したイベントで飲食系の出店枠が空き、誘ってもらったことです。僕は素人なのでフードは無理。お酒は主催者がやることが決まっていたので、ソフトドリンクを出すことにしました。でも、既製品の缶ジュースなどを売るのはつまらない。何か作れたら面白いな、と思いついたのがシロップでした。その場で割って提供できるし、保存がきくので売れ残ったら自宅で飲めばいいからです」

 大の生姜好きなのですかと問うと、「普通に好きな程度です」と素朴な口調で返してくれる中川さん。正直な人柄のようだ。ジンジャーシロップへのこだわりは、「辛さをむっちゃ出したかった」に留まる。主催者から声をかけられてからイベント出店までわずか2週間。ネットなどでレシピを収集し、自分なりに納得のいく味に仕上げた。2015年のことだ。

豊橋駅(愛知県豊橋市)から徒歩10分ほどのところにある水上ビル。「大豊商店街」の中に中川さんの製造所兼店舗がある。和菓子問屋「花月堂」の跡地をリノベーションした

会社を辞めて開業するつもりはなかった。社会的な意味がきちんとある勤め先だから

 結果は成功。大いに売れたことに加え、飲食店を営む人から「シロップを買えますか? 店で使いたい」と言われ、名刺をもらった。中川さんは「これは商売になる」と直感した。ただし、新卒入社の勤務先を辞めて開業することはまったく考えていなかったと振り返る。

「社会的な意味がきちんとある会社だからです。再生医療という人の役に立つ産業に関わることを誇りに思っていました。僕は主に品質管理の部門にいて、製品のチェックや製造環境の維持・管理が業務内容。新しい分野なのでノウハウをゼロから作ることもできました」

 中川さんが入社した頃の社員数は40人程度だった。まさにバイオベンチャーといった雰囲気。自分であれこれと工夫して何かを作っていくのが好きな中川さんには向いていた。

 2014年末にこの会社は大企業の傘下に入る。社員数も増え、黒字化のめどが立ち、製造環境も洗練されていった。

「業務が固まってきた、と感じました。オレがいなくても勝手に回って行くんだろうな、という感覚です」

 2017年の夏から中川さんはジンジャーシロップ製造所の開業準備を始める。本業が落ち着いていて17時40分の定時には仕事を終えられるし土日はほぼ休みなので時間が使えた。さらに、子どもが小学校に上がることを機に豊橋市内に一軒家を建てたことで、気鋭の建築家やデザイナーと知り合えた。中川さんは豊橋駅前の「水上ビル」に入居することを検討し始める。

 水上ビルとは、豊橋市に流れる農業用水の暗渠上に作られた古くて細長い建物群を指す。駅前の名所ともなっている一方で、空き店舗も目立つ。中川さんはこの地域にポテンシャルの高さを感じた。

「大阪の南堀江やアメリカのブルックリンみたいに、昔は栄えていたけれど今はさびれてしまった場所にアート系の人たちがやって来て、新しい店を始めています。僕はメインストリートから外れたところにあるレトロな雰囲気が好きなので、ここで商売をやってみたいと思いました」

東大阪市出身の中川清史さん。屋号「TEMTASOBI(てんたそび)」の由来は、息子の槙(てん)くんと遊ぶイメージから

水上ビルという「地域」との出会い。「買ってもらえる」ストーリーを考え抜く

 水上ビルという「地域」との出会いが、中川さんのジンジャーシロップに独自のストーリーを付与した。古くて味わいのあるビルの一角にある実験室的な内装の製造所で、医療系メーカー出身の男性が真面目に作っているジンジャーシロップ、というストーリーである。

「ジンジャーエールはカナダ人の薬剤師が発明したものです。料理系の人が作るジンジャーシロップとは違ったイメージを持たせられていると思っています。後付けのイメージですけど(笑)」

 中川さんが使っている生姜は高知県産であり、愛知県豊橋市で製造することには必然性はない。また、ジンジャーシロップは製法が簡単で、ネット上にあるレシピで自宅でもおいしく作ることができる嗜好品だ。だからこそ、「どうやったら手に取って買ってもらえるか」を考え抜くことが必須で、上記のブランドストーリーは欠かせない。瓶のデザインを凝ったものにしたのも同じ理由だ。

「もしまったく同じ味のシロップを500円でスーパーで売っていたとしても、競合はしないでしょう。うちは雰囲気が出来上がっているからです」

 一定の品質のものを安全かつ大量に作り続けることには自信がある。設備や殺菌方法、表示などに関しては法律の規定があるが、前職である医療系の製造現場に比べると驚くほど簡素なものだからだ。

 現在、顧客の8割は女性で、年齢層は30代後半から80歳までと幅広い。中川さんはアピールをしていないが、生姜には冷え性改善といった「体にいい」イメージがある。贈答用にも使える美しいパッケージも大いに効果を発揮し、女性の心をつかんでいるのだ。

製造中の様子。左のお手伝い男性は、かつての仕事仲間。モノづくりに長けた心強い助っ人である

本業に支障がなければ副業は問題なし。上司や総務に相談して言質を取る

 2018年8月、中川さんのジンジャーシロップ製造所「TEMTASOBI GINGER」が開店した。当初の売上目標は月100本。ちょうど家賃と原材料費、水道光熱費が賄える数字だ。

「僕一人でやっているので人件費はゼロです。100本以上売れれば粗利が出るので、ちょっとした小遣い稼ぎになります。僕は主夫でもあるので、子どもと遊びながら楽しくやれればいいと思っていました」

 会社の就業規則を読むと、「業務に支障のある副業は禁ずる」と書いてある。業務に支障がなければ副業は構わない、とも読める。中川さんはあらかじめ上司と総務担当者に相談し、「休日を使うなら問題ない」という言質を取る。

 ここで、幸か不幸か誤算が生じる。本業が次第に忙しくなってきたのに加え、ジンジャーシロップは予想を上回る売り上げを記録。月200本とは別に、飲食店には大きな瓶で卸しても生産が需要に追いつかない日が続いた。

「会社では夜10時まで残業して、帰ってから1時までシロップを作り、翌朝は出勤。土曜日は丸一日かけてシロップ作りで、日曜日に開店するとすべて売れてしまう、という毎日でした」

 イベントに出店しても開始30分間で完売してしまうこともあった。口コミで取引を申し出てくれた飲食店にも「生産が間に合わずに新規は受けられない」と断らなければならない。開業からはしばらくして、中川さんは16年間務めた会社を辞める決断をした。

主夫でもあるので家庭との両立は必須。安定収入は奥さんが確保してくれる

 最後に少し現実的な話を聞こう。会社員時代、中川さんの年収は約500万円だった。現在はどうか。

「売り上げは月50万円から80万円の間で推移しています。ありがたいことに、会社員時代の仲間が製造や販売を手伝ってくれていますが、それでも今の生産体制では月80万円が限度でしょう。製造はほぼ毎日、開店は週3日、月2、3回はイベント出店しています」

 勝手に計算させてもらおう。月70万円の売り上げで原価率3割とすると、中川さんの年収は約600万円。会社員時代よりアップしているように見えるが、安定性や厚生年金の有無を考慮すると、経済的な良し悪しは判定しがたい。しかし、中川さんの表情は明るい。

「大げさな言い方かもしれませんが、僕は儲けるよりも、社会にいい影響を与えたいんです。うちのジンジャーシロップを扱うことでお客さんが増えたという声を飲食店の方から聞くと嬉しいですね。いい関係が築けているな、と思います」

 安定収入は奥さんが確保してくれるという側面もある。彼女は自動車関連の大手メーカーの正社員であり、「もっと残業したい」というほど仕事好き。家事の多くは中川さんのほうが担っており、家計も中川さんが管理している。まさに主夫なのだ。自宅近くで独立開業した今は、仕事の合間を利用して子育てと家事をより丁寧にできるようになった。

 中川さんは生姜マニアでも「商売の鬼」でもない。家族を愛し、仕事ではやりがいと温かい人間関係を求めるごく普通の人物である。そんな人が無理なく長く働くためには、独自の切り口の「小さな商売」を始めることが有効なのかもしれない。(終)

製造したジンジャーエールはそのつど保存。比較検討することで品質の改善と安定化を目指す。前職の再生医療メーカーで培ったノウハウの一つだ

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