独自性や強みがあるから、作品やピンで立つというとそういうスタイルでいけそうというか、打ち出しやすくなりますよね。
変態というのはおかしなという意味でなく、ユニークという意味合いです。それ自体はGOODです。
ただ、その変態である人が、ユニークということですが、ユニークさがすごくてコミュニケーションできないとやはり辛いです。理解されないとなって終わると。終わるなんて分からないし、スタイルを貫くのもいいですし、これはもはやスタイルや信条の問題です。理屈ではないですよね。
それを踏まえた上で、変態であるならコミュニケーションが必須かと思います。相当変わってるなあという人もコミュニケーションが取れる、つまり変わっている対象は「分からない」し「そこにいけるとは思わない」し「理解はできない」のだけど、まあ本質的には分かる。つまり具体性は理解できないが、本質なら分かるという感じですよね。
その場合、コミュニケーションがあるから可能です。取材記事でもわりとまともなというか、分かることを言ってるなあと感じるのは、伝えようとしたりいるからでしょう。
この伝えるということを全くしないでどういけるか。そう考えるのもありですが、かなり辛い感じになりそうです。そもそも、全く社会と無関係でいられるとは思わないのですが、どうもそのラーニングを失敗するか、割り切りが「社会」との距離感なのかは不明ですが、コミュニケーションができない、取りづらそう、または取れない、関わりたくないとなると、これは一大事ではないかと。
その上で、コミュニケーションができればかなり色々と修正したり変更したりできそうです。聞くけど変えないというのもあるので、コミュニケーション定義次第になるのですが(笑)
独自性は大事。でも、独自性によって伝えることと、他者への歩み寄りって矛盾でなく掛け算なり組み合わせで考えたいって話でした。
で、これがアイデアを自分で産めば産むほどこだわりが強くなるか、なくなるかどっちかなのかなと。後者になっていくと思っているのですが、僕はそうですが、前者もありえると。ただそれって出したアウトプットでどこまでコミュニケーションするかなので、していれば後者になる。つまりこだわりは消えていくので、よりコミュニケーション寄りになると思っています。だから、こんな場をつくろうということが興味として持続したと言って良さそうです。
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