2021/07/11 19:52

別の道を創る〜ゼノンと馬に乗って水の道を巡る旅。

 

人はなぜ、立ち止まって考えるのか?

 

 一度立ち止まって、考えてみてはどうだろう。

よく耳にする言葉だが、不思議に思うことがある。ひとは、なぜ立ち止まって考えるのか。考えるという事と、立ち止まることや動きを止めるということは、どのようにして結び付くのか。

絶え間なく動き、変化し続ける現実の中にあって、状況を理解することも、考えをまとめることも、確かに難しい。幾重にも情報が錯綜し、翻弄され迷い続けるよりも、一度立ち止まって、動きを止めて見て、情報を整理してから、考えをまとめてみてはどうか。つまり、動きの中から一度外に出て、状況を客観的に見ながら、考えをまとめてみてはどうかという意味だ。

 

錨(いかり)を降ろして安心する。

 

 動き変化し続ける現実の外に出ることで、自分が置かれた状況を客観的に見ることができることは確かだ。動きを止めて見ることができれば、物事を構造的に理解でき分かり易くなる。

自分は今このような状況に置かれているのだと、自身が納得する根拠を得ることができれば、人は安心する。そのようにして見出した根拠が、世間の認める説明(概念)と一致すれば、尚更安心できる。

そのように概念へ落とし込む(固定する)作業のことを、ひとは「考える」と言っているのではないだろうか。概念は、動かない。ひとが動き続ける現実の中にあって、概念とは揺るぎない視点や立場を維持するための錨のようなものかもしれない。

 

動かないものが、動くように見える。

 

 しかし、概念は、動き変化する現実とは完全に一致はしない。概念が変われば、世界の見方(世界記述)も変わる。世界記述が変われば、概念は刷新される。つまり、パラダイム転換が起こる。動きを止めた世界の見え方は、時代と共に変化する。

動くものと動かないものは、一致しない。瞬間瞬間、動きを止めた無数の断片(ビット)に切り分け、それらをコマ送りしていけば、動いているように見える。進歩し続けるデジタル技術は、動かないものを動くように見せる究極の様式かもしれない。デジタルが我々の社会に革新をもたらしたことは事実だが、その根底には動きを止めて現実を捉える様式がある。

 

古代ギリシアの哲学者ゼノンのパラドクス〜アキレウスは亀に追いつけない

 

 動きを止めて考える思考様式から動くもの(運動)の矛盾を突いたのは、紀元前5世紀頃に活躍した古代ギリシアの哲学者ゼノンだ。ゼノンが提示した「アキウレスは亀に追いつけない」や「飛んでいる矢は止まっている」といった有名なパラドクスに、今も明確な答えを見出すことはできていない。

 アリストテレスは、ゼノンを質疑応答により知識を探求する方法(弁証法)を最初に発明した哲学者として紹介しているが、彼のパラドクスは今も人々に質疑応答を促し続けている。

 

※ゼノンのパラドクス(俊足のアキレウスは先に出発した亀に追いつけない。なぜならアキレウスが亀に追いついたとき,亀は少し先へ進んでおり,アキレウスがさらにその場所に着いたときには亀はそのまた先へ進んでいて,これが無限に繰り返されるから〉,〈飛んでいる矢は,各瞬間を考えれば静止しているから,運動できない〉などが特に有名。)

 

思考の中に潜むブラックホール

 

 人類の進歩を支えてきた思考様式には、底無しの穴が潜んでいるではないか。思考の真ん中には、ぽっかりと口を開けた暗黒の穴があるのかもしれない。

 私たちの思考の銀河の中心には、ブラックホールがあるのか。あるとしたら、知りたい。その存在を確かめたい。

 物理学の最新研究で、ブラックホールと共に取り上げられるのが、ダークマター(暗黒物質)という謎の物質だ。銀河の中心には、このダークマターから形成されたブラックホールが存在する可能性があると考えられている。

 ダークマターは、全宇宙の質量の27%を占めているとされる。ところが、一切の光も電波も発しないため見ることができない。まさに、謎の物質だ。しかも、その謎の物質によって、宇宙や私たちの存在が支えてられているというのだから驚きだ。

今、この未知の物質の正体を明らかにしようと、世界中の科学者が挑んでいる。

 より小さくより深くより広く、宇宙の成り立ちを解明しようとする科学者の探求が日々続けられている。

 

思考の限界には思考の未来がある。

 

 私たちの思考の銀河にも、このダークマターがあって、私たちの思考を支えているのではないか。人々は、思考のダークマターの存在に気づく事もなく、それに支えられ思考しているのではないか。

未知なるものが、思考の銀河全体を支えている。そう考えると、思考の限界というよりも、思考の未来に大きな可能性を感じてしまう。これこそ、マイケル・ポランニーが言った暗黙知の次元かもしれない。(この小文では、暗黙知ではなく、あえてダークマターという言葉を使わせてもらいます。)

 

動く現実の中で思考し実践するプロジェクト。

 

 未知ということは、思考の外に何かが在るということ。逆にいうと、私たちの思考が何かの外に在るということでもある。つまり、それは動くものの外に在るということだ。その動くものとは、自然である。

 自然と共生する社会を創るために、動くものの中で思考し実践したいという思いが、アサザプロジェクトの展開を促し続けてきた。動くものとは、循環し変化し続ける自然であり、人々の日々の暮らしである。だから、私たちは、自然のネットワークに重なる人的社会的ネットワークの構築を目指し様々な取り組みを行なってきた。

 

閉じることで開くアートで創る新しい社会

 

自然のネットワークは、動的なネットワークだ。そこには、絶え間ない循環があり、生き物の道、水の道(水系)、風の道など、様々な動く道がある。私は、それらの道と重なり損なわない新しい道を社会に創ることが、自然との共生に結び付くと考えてきた。新しい人、モノ、カネの動き(ビジネスモデル)を創ることも、子ども達と生き物の道を展開する総合学習も、その延長線上にある。それは、人やモノやカネを用いて自然を描くアートだ。

 動的である自然のネットワークに重なる人的社会的ネットワークを構築することが、霞ヶ浦を再生に導くことはもちろん、地球上の様々な環境問題を解決に導く王道であると、私は確信している。そのような王道を創るためにも、思考のダークマターという存在を忘れてはならない。ダークマターは、閉じることで開くアートを可能にするからだ。

 

ベートーヴェンの日記

 

 アートは、創り手が様式の中にひとつの世界(作品)を創ること(閉じること)で、世界に向けてより開いていく行為だと思う。10代後半に読んだベートーヴェンの日記の中に「自分は12音という人間が作った音階(形式)を基に音楽を創造している」といった趣旨の一文があり、はっとさせられた記憶がある。閉じること(表現する覚悟)の意味を知っていたからこそ、彼は宇宙をさえ感じさせる壮大かつ深淵な生の音楽を創ることができたのだと、その時私は思った。彼の音楽は、ダークマターによって満たされている。だから、音楽を超えた普遍的な価値を持つことができたのだと思う。

 自然と共生する社会を実現するためには、閉じることで開くアートがあらゆる活動に求められる。それは所謂アートという分野を超えた、より普遍的な意味でのアートである。

 

ゼノンと馬に乗って別の道を創る。

 

 自然と社会を結ぶ双方向的思考によって動的ネットワークを現実化するために、私たちの社会に新たな道を創る必要がある。つまり今の道とは別の道を、私は先のパラドクスで運動を否定したゼノンと共に、馬に乗って水系を巡りながら創っていきたいと思っている。

 自然のネットワーク(水系)を馬と共に動きながら思考する。新たな思考が生成する場としての別の道を、水系(自然のネットワーク)に重ねて創る。それは、霞ヶ浦流域を覆う道路網とは別の動く道になる。

広大な流域を隈なく覆う水の道、水系を、人と馬が自由に動くことで、新たな思考と実践を生み出していく。私は、この別の道を既存の道(道路網)と併存させることから、社会を変えていきたいと思う。

 

流域を覆う毛細血管

 

 霞ヶ浦には大型の流入河川は1本も無い。湖に流れ込む流入河川は全部で56本あるが、みな中小河川だ。それらの流入河川には更に多くの支流が合流している。また、それらの小型河川の上流には数多くの支流、谷津田と呼ばれる樹枝状の谷が台地の奥深くにまで展開している。谷津田は、霞ヶ浦流域に1000以上もある。霞ヶ浦流域は、まさに、毛細血管のような水系に覆われている。そして、それらの谷津田には古くからの集落がある。

 つまり、人々が目にする広々とした湖面全体が、霞ヶ浦なのではない。流域に広がる水系を含む全体が、実体としての霞ヶ浦なのだ。その霞ヶ浦は、水面として見える部分の約10倍の大きさ(流域面積約2200㎢)を有している。それを、丸ごと別の道に変え、社会を変える。それが、目標だ。

 

見えない霞ヶ浦

 

 琵琶湖と違い、入江の多い複雑な形をした霞ヶ浦は、その全体を感じ取ることが難しい。その上、平坦な関東平野の中に位置する霞ヶ浦水系は、山々に周囲を縁取られた琵琶湖水系とは違い、その全体を感じることが困難だ。湖を眺めても、地平線へと吸い込まれ空と一体化してしまう。霞ヶ浦の全体像は、見る事も感じる事も難しい。

見えない湖、それが霞ヶ浦だ。

 水系を含む霞ヶ浦全体を、感じ取りイメージした社会を創ることこそが、霞ヶ浦再生には不可欠ではないか。霞ヶ浦全体を感じ取ろうとせず、理解しようとせずに、概念に置き換え、部分的理解の寄せ集めで、霞ヶ浦の問題を解決しようとしても、それは不可能だろう。なぜなら、目に見えない霞ヶ浦(ダークマターの湖)を無視し排除しているからだ。

 

ダークマターの湖を馬と歩く。

 

 実体としての霞ヶ浦と向き合うためには、動きを止めない思考が、つまり、ゼノンを馬に乗せる必要がある。私たちは、馬に乗って水系を巡り様々な人々や地域と交流するプロジェクトを始める。

霞ヶ浦の流入河川のそれぞれに、まずは、一級河川と呼ばれる24河川それぞれに駅(うまや)を作り、それぞれの駅を拠点に霞ヶ浦の水源地谷津田の再生を進め、新たな人や物の交流の場を創り水系を通して広げていきたい。そのように道路網とは別の道で社会を覆い、社会を変えていきたい。

霞ヶ浦の流入河川には堤防があるが、ほとんどが草の生えた土手だ。土手の上の細い道を通る自動車や人はほとんど無い。水や草や土の匂い、鳥や虫の声、吹き渡る風、移ろう光に包まれながら、この土手道を馬と歩き、別の道を水系全体に広げていきたい。

 

概念で作られた道とは別の道を創る。

 

 道路網は、自然との対話を失った、まさに概念による道。交通や移動といった概念を基に、机上に引かれた線が、そのまま大地に引かれていく。だから、道路網は水の道や生き物の道や、自然との対話によって育まれてきた道、それら動くものによって創られた道を、容赦なく分断し建設されていく。

一度引かれた線は、動かない。動かない線の上を、人や車が慌ただしく行き来する。この様な道に依存していては、社会は自然との共生に向けて舵を切ることはできない。別の道が必要だ。

 別の道となる水系は、道路網と異なり絶えず動いている。その道は、動く水によって創られているからだ。動くものが創る水系は、私たちの概念を超えて在る。それは、ダークマターの湖としてある。

 2030アジェンダやSDGsなど、人類に迫り来る重大な危機を回避するために、世界中で別の道が模索されている。しかし、別の道に向かうために必要な時間はもうあまりない。

私たちは、霞ヶ浦に自然のネットワークに重なる別の道を創ろうとしている。

 

アキレウスが絶対に追い越せない亀になる。

 

 アサザプロジェクトは、27年前に霞ヶ浦の湖岸(252キロメートル)歩く中から生まれた思考と共に動き始めた。その思考の展開によって、霞ヶ浦の湖岸植生帯を再生する取り組みが、農林水産業や地場産業、企業、教育機関、地方自治体、省庁などによる協働事業として実現していった。

しかし、それは、私たちに、湖の中での取り組みには限界があるという事を教えてくれた。この取り組みを通して、私たちは霞ヶ浦という湖が、通常霞ヶ浦と呼ばれる領域(湖面)だけではないという事実を思い知らされた。

私たちは、その頃まだ、堤防に縁取られた霞ヶ浦という概念の湖に囚われていた。ダークマターの湖も、水系や流域、あるいは全体という概念の錨によって動きを失っていた、私たちの思考の未だ外にあった。

霞ヶ浦を持ち合わせの概念に当て嵌め、思考の枠組みの中に無理やり納め、動きを止めて分析すれば、状況が的確に理解され迅速な対応も可能になるかもしれない、しかし、それは現代のパラドクスの中を疾走するアキレウスに過ぎないのではないか。

 27年後の今、私たちは再び動きの中にあって新たな思考を得ようと、未知の領域に迷いこみ楽しんでいる。

ダークマターを湛える広大な湖を経巡る旅に、アキレスに絶対に追い抜かれない亀になって、さあ出かけよう!

 より小さくより深くより広く、私たちの探求と実践は続く。

 

                       2021年7月1日  

                       認定NPO法人アサザ基金

                        代表理事  飯島 博