2021/10/07 12:00

23


地獄の一丁目。という古い言い回しがあるけれど、翌朝私の脳裏に浮かんだのは、まさしくこの言葉だった。


当時私が寝起きしていた仏間には、隣の納戸に放り込んだ両親の荷物が溢れ出し、お仏壇周辺以外はゴミ屋敷のような有様になってしまった。

仕方なくお布団を一階の洋室に移動し、私はそこで両親の退院後第一夜を過ごした。

その洋室には私の作業デスクや洋ダンスを置いてあったので、結局この方がよかったな。

と思いながら疲れた体を布団に横たえたのは、夜中の1時過ぎ。

心身ともに疲れ果てていたので、まさしく泥のように眠った。


ガターン!バン!


洋室のドアが開く音でびっくり仰天して目が覚めた。

ブラインドは開けっ放しなのに、部屋の中はまだ仄暗い。

え?

え?

寝ぼけた頭でキョロキョロすると、母が音もなく部屋に入ってきた。


「え。ちょ。お母さん?どうしたの?」

枕元の携帯を見ると、時刻は午前5時。

突然早朝に起こされ、心臓がバクバク音を立てている。


「寝ている場合じゃないのよ」

と母が言う。

そして私の布団の周りをぐるぐると回り出した。

薄暗がりの中布団の周りをぐるぐると歩き回る母の姿は、その痩せ衰えた容姿と定まらない視線も相まって幽鬼さながら。この世のものとは思えなかった。


お。お母さん。ちょっと。ちょっと落ち着いて。

起き上がって母をソファに座らせたけれど、母は落ち着かない様子ですぐに腰を浮かようとする。


どうしたの?

目が覚めちゃって心配になった?

ここは家よ。


と声をかけても、目線は宙を泳ぎ、何やらずっと話し続けているけれど、そのどれもが意味をなしていない。

どうしよう。どうしたんだろう。

心臓がますますバクバクしてくる。

「お母さん。ちょっとまだ朝早すぎるから、部屋に戻ってもうちょっと寝よう?私も1時に寝たばっかりでまだ眠いのよ。ね?」

と宥めても、何かをぶつぶつ呟き続けるだけで、返事もなければ目線を合わせてもくれない。

なんとか宥めて立ち上がらせ、手をつないで階段を上がり寝室に連れて行くと、父がベッドに起き上がって不安そうにこちらを見ていた。

「どないしたんや、かーちゃん?」

「寝ている場合じゃないのよ。お父さん。もう破滅しかないのよ」

母の不吉な言葉で、真っ暗な寝室は一気にブリザード。空気がヒュウウウと3度ぐらい下がった気がした。

「は、破滅・・・。 いや。とりあえず今日は破滅はしないと思うから、もうちょっと寝ようよ。お母さんも疲れてるでしょ?」


「疲れてない。寝ている間に破滅するのよ。もう何もかもおしまいなのよ」


母は譫言のようにおかしなことを言い続け、父は無言で不安そうに母を見ている。

「お母さん。お父さんがすごく疲れてるのよ。もうちょっと寝かせてあげないと、お父さん病気になるかもしれないよ」

と言うと、少しだけ母の瞳に意志の光が戻ったように見えた。そして、ゆっくりとした動作でベッドに入ると無言で布団に体を横たえ、目を閉じた。

どんなに精神が不安定になっても、母にとって最も大切で最も敬うべきは夫。これだけは忘れていないらしい。

お手本のような妻の愛である。


大人しく目を閉じた母の様子にほっとして、しばらく様子を見た後、父のいびきが聞こえてきたところで寝室のドアを閉めた。


その後、1時間ほどウトウトしたけれど、何やら胸騒ぎがしてロクに眠ることができなかった。母の様子も気になるし、ええい、もう起きてしまえ。

枕元の携帯を見ると、午前6時半。死ぬ。

一人前の社会人の大半は、仕事に行くために起き出して身支度を整える時間だけど、個人的には人間とは思えない早起きである。

疲れた体をひきずるようにしてダイニングに行くと、薄暗い部屋の中、母が一人無言で座っていた。

電気も点けずテレビももちろん点けず、暗いダイニングに一人座る母の後ろ姿にギョッとした。

「お母さん。どうしたの?眠れなかったの?せめてテレビか電気をつければよかったのに・・・」

声をかけるとまた母が言う。

「みんなが寝ている間に破滅する」

母の異常な様子には、内心私も激しく動揺したけれど、努めて平静を装った。両親のお世話はこれからなのに、ここで私が心を乱してはいけない。

両親のそばに居られるのは私だけなのだから、しっかりしなくては。

ただその一心だった。

「うーん。破滅はしないと思うから、とりあえず雨戸開けるよ」

「絶対に破滅する」

「いやしないよ、破滅は」

「何もかも終わるのよ」

不毛な会話を交わしながら雨戸をカラカラと開けると、部屋に早朝の光が入ってきた。

庭木が朝露に濡れてキラキラと光っている。

土と草の湿った匂いが鼻腔に広がり、胸の奥からスーっと目覚めていく。

狭いけれど両親が大切にしていた庭には、私が子供の頃から一家の引っ越しと共に移動してきた庭木が何本も植っている。植物の種類には全く無頓着な私に、母がよく

「今年はそろそろ金木犀の匂いがしてきたわよ」

とか

「今年もまた紫陽花が巨大でねえ。咲きすぎて地面に垂れるぐらいになっちゃって、たくさんご近所にお裾分けしたら喜んでもらえたわ」

「庭の紅葉がびっくりするぐらい真っ赤っかよ。綺麗だわー」

と、四季折々の様子を知らせてくれたものだった。

ああ。

もっと性根を入れて聞いておけばよかった。

適当な態度で聞き流して、最後には

『つまらない話ばっかりしてごめんね』

なんて言わせてしまった。

ごめんね、お母さん。

背後で暗い表情で座っている母の気配に、とても胸が痛んだ。

父の入院直前に、えいやーっと草むしりをしておいたおかげで、雑草はほとんどなかったけれど、庭木の枝は生え放題。あちこちに伸び、曲がり、アール・デコの様相を呈していた。

それでも、朝日に照らされる緑たちは美しく鮮やかで、寝不足の目を和ませ心を癒してくれた。


「ほら。今日も良いお天気だし、破滅はしないと思うから、朝ごはんにしよっか」

私が何を語りかけても、母はずーっと下を向いたままぶつぶつと言葉にならない言葉を呟き続けた。

そして、合間合間に、オエオエオエッとからえずきの声まで入れてきた。

「ちょ、お母さん。気持ち悪いの?大丈夫?」

と聞くと

「全部終わりよ。破産して訴えられる」

と、不吉な新しいストーリーが展開し始めた。

起きてきた父がこれを聞き、

「ええっ?は、破産!?なんじゃそりゃ?」

と大きな声でちょっと笑った。

いやいや、今起きてきたばっかりでそうやって笑ってるけどね。そんな笑い事じゃないのよお父さん。

わたしゃ朝5時に母に叩き起こされて死ぬほど恐ろしい思いをした上に、結局眠れずじまいだったのよ。眠いのよ。普段の私にとって朝5時なんて、下手するとこれから寝るかな、っていう時間なのよ。

と思いながらも両親の食事の支度は待ったなし。

ゴミ出し・洗濯・掃除、そして両親の3食の支度と、仕事は山積みである。

ただ一つの救いは、朝食がパン食になったこと。

入院中は朝食がパン食だったため、朝は炊き立てのご飯でなければならない!と信じ込んでいた両親は、いつのまにか『朝食はパン』に慣れてしまっていた。朝から米を炊くと言う行為が私にとっては大変な難行苦行だったので、パンを焼けば良いだけというのは本当にありがたかった。

焼きたてのトーストにバターとジャムをたっぷりと塗り、濃い熱々のミルクティーと一緒に出すと、父が

「おお。美味しそうやなあ!ほれ、かーちゃんもおかしなことを言うとらんと、はよう食べ。玲子ちゃんが美味しいパン焼いてくれたで!」

と母に明るい声をかけてくれた。


「食べたくない!」


この世のものとは思えないぐらい暗い声と顔つきで、超ネガティブなことばかりを呟き続けていた母が、突如キッパリと顔をあげて言った。



うわっびっくりしたっ。

と私が言っても、誰も笑ってくれない。

「そんなこと言わんと、食べなさいよ」

父が悲しそうな顔をする。

「そうよお母さん。家に帰ってきたんだから、もう他のお年寄りは周りにいないんだし、気を遣わずに好きなように暮らしていいのよ。ご飯食べて元気だして、また一緒に大丸に行こうよ」

私の励ましの言葉に父も、そうやそうや! とデカ声で応じる。

そんな父と私の必死の努力と励ましも虚しく、母はほとんど食事を受け付けず、一口食べては「いらない」「ムカムカする」「食べたら吐く」と言って、この日1日の食事を拒否し続けた。

こんなことがずっと続いたら、栄養失調で死んでしまう。

病院にいる間は必要とあらば点滴をしてもらったり、栄養補助食品が適切に提供されるのでなんとか安心だけれど、自宅ではそうはいかない。

どうしよう。


思い余って主治医のN先生に電話をかけた。

先生ー。母がご飯を食べません。うわごとみたいに不吉なことばかり言って、家庭内が地獄の釜の底みたいになってます。助けてくださーい。

「では、午後の診察が終わる19時頃、往診します。栄養点滴も持っていきます」

と速攻で応じてくれた。

うわー。今時往診なんてしてくれるんだ!ありがたい!

神様仏様N先生様、ありがとう!


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